ベニスビエンナーレ・東京展
北山恒さん塚本由晴さん西沢立衛さんによるベニスビエンナーレの展示をオペラシティーで見た。ついでに「地域社会圏」のレクチャーをして北山さんと対談してきた。展覧会は実際にベニスでも見たけど、改めて見て、改めて素晴らしいと思った。
塚本さんと西沢さんの1/2スケールのモデルはそのスケール感が面白い。1/2というスケールが現実と虚構(模型)の間にあるために、つまり現実でもないし、虚構でもないちょうどその中間にあるために、見る側の意識が現実と虚構のあいだを行ったり来たりするような仕掛けになっているのである。見る側が「物語」を自分でつくることができるような仕掛けになっている。小さな子供だったら例えば身長90センチの子供だったら、ほとんど自分たちの世界のリアルな建築である。子供たちから見たらそう見えるだろうなあ、とわれわれ大人たちの思考を刺激する。見る人たちによる様々な「物語」を許容するようなつくられ方がとても良いと思った。そういう意味では塚本さん貝島さんたちの中途半端なリアリズムが成功している。掛け値なしに楽しい。西沢さんのモデルはちょっと抽象化されすぎていて、現実の側に頭がスイッチしにくい。エンタテインメントを排除しようとする純文学作品のようなモデルだった。もうちょっとサービスしてもいいのになあ。でも、ベニスでも思ったけど、この二人のプレゼンテーションは周辺の様々な国のプレゼンテーションに比較して、抜群だった。
際立っていたのは、日本館のテーマが住宅だったということである。住宅を現在の建築的なテーマにしたというのは北山さんのアイデアだと思うけど、それが極めて新鮮だった。住宅、特に個人住宅なんて建築の問題にはならない。それは昔、20年以上も前に磯崎新さんが言ったことだった。やはり20年近く前、10+1の座談会で坂本一成さんは「住宅問題は社会問題で、建築の問題ではない」と言い切った。(10+1:1994.Autumn.p113)私とは全く違う意見だった。住宅問題を社会問題にすることで、建築家たちはその社会問題に触れることなく、「住宅という建築」を単にフォルムの問題、形の構成の問題だけに矮小化(敢えて言うけど)することができたのである。住宅問題、つまりその供給の仕組みや住み手との関係あるいは都市との関係である。それはこの20年間建築家にとってはほとんど思考の範囲外だった。今でも多分そうである。
その間に日本の住宅政策は持ち家制度に徹底してシフトしていって、住宅に住みたい人は、住宅メーカーの戸建て住宅か、民間ディベロッパーの高層マンションを購入するしか選択肢がなくなっていったのである。2000年以降、地方住宅供給公社、都市基盤整備公団は公共住宅の供給をやめてしまった。2000年の「住宅宅地審議会」の答申ではっきり言っている。「住宅宅地の取得、利用は国民の自助努力」である。つまり国家はもはや住宅に対して一切の援助はしないということである。援助どころか、住宅は民間ディベロッパーの利潤をあげさせるための役割しか、もはや持っていない。住む人のためにつくられているわけではないのである。2006年の「住生活基本法」で住宅関連業者の住宅への参加の仕組みが整備されて、2007年には住宅金融公庫が廃止された。民間の住宅金融業者への支援機構になってしまったのである。つまり国民に持ち家を促進融資する組織から、民間金融機関をサポートする組織に組織変更されてしまった。どうやったらお金のない人たちに金融機関からお金を借りさせて、住宅を持たせるか、それが仕事である。住宅は完全に市場に委ねられてしまったのである。そして「市場が感心を示すのは購買能力を備えた消費者の欲求だけである。」(「不完全都市」p47平山洋介)と平山さんは言うけど、全くその通りである。低所得者たちの行き場がない。住む場所がないというのが今の日本の状況である。住宅は経済成長のための単なる道具なのである。こんな政策でいいのか。
これは国家的な犯罪に近いと私は思う。
というような話しを北山さんとの対談でした。
日本の都市は住宅でできている。戸建て住宅でできている都市なんて先進の近代国家の中では日本だけである。その異常な都市の景観を北山さんの表現は良く説明している。最近のビエンナーレの中でも秀逸だと思う。なぜこれがグランプリじゃなかったのか、それが不思議だ。