榑沼範久さんと話しをした

2011.06.18

石巻に榑沼範久さんと一緒に行ったという話しを既にした。「助け合って住む」というような考え方がなぜ偽善的に見えてしまうのか、「助け合う」とう いうそうした考え方に対してなぜわれわれはそれをシニカルにしか受け止めようとしないのか。榑沼さんとそういう話しをした。その時に榑沼さんがフロイトと ダーウィンの二人を取り上げて、その二人の考え方が正反対であるという、とても刺激的な話しをしてくれたので、それ以来ずっと気になっていた。
そこで改めてメールを出した。返事をもらった。そのメールは私信だけど、それがまた極めて刺激的なので榑沼さんにことわりなくここに掲載させてもらいます。後ほどもう少しちゃんと話しをしていただく機会を持ちたいと思いますので、済みません。ご容赦ください。

榑沼様

石巻にご一緒したときにも話しをさせていただきました。「助け合う」ということに対して私たちはなぜそれをシニカルにしか受け止めないのか、いつ頃からそういう受け止め方をするようになったのかという話しです。
榑沼さんはフロイトとダーウィンの話しをされましたが、即座にその二人を持ち出したことにとても刺激をうけました。
その話しをもう少し詳しく教えていただけませんでしょうか。
建築の側からですと、パリの2月革命以降、労働者たちが集団化すること(フーリエ主義)を恐れた産業資本家たちは「1住宅=1家族」を住宅供給の原理にしたのだと思います。その「1住宅=1家族」と「助け合って住む」ということとは全面的に矛盾します。
近代化の感性と「助け合う」ということとは相互に矛盾することなのかなあと思いました。
何かの機会にお教えいただけたらと思います。

山本さま

取手の「メディア概論」では、一般的な「メディア論」ではなく、「メディア」「ミディアム」の多義性をもとに、万物になるべく言葉を届かせたいと願いながら、話をしています。
前回は、生きものの命のつらなりと、媒介としての個体の命の話から、ダーウィンについても話をしました。生物学者であっただけでなく、心理学者、地質学者、自然史学者だったダーウィン。ミミズと土壌について、長年の観察を人生の最後にまとめたダーウィン。

主著『種の起源』(1859)の全題名
On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life
これをどう理解するか(翻訳するか)。ここからすでに、何か重要なことが賭けられていると思います。

私はこのthe Struggle for Lifeという言葉をダーウィンが書名に綴ったのを知って、鳥肌が立ちました。
日本語の「生存闘争」からイメージされる、「万人による万人の闘争」「自由主義的競争」「弱肉強食」は、自然状態の全部ではなく、部分です。the Struggle for Lifeはむしろ、「生きるための闘い(努力)」、「生命のための闘い(奮闘)」「命のための闘い」です。
そして、この「生命のための闘い」では、助け合うことに対してシニカルになっている場合ではありません。
『人間の由来、および性に関する選択』(1871)(邦訳『人間の進化と性淘汰』)の
なかでダーウィンは、人間にとって重要なのは、愛情と共感という感情だと述べています
(『人間の進化と性淘汰II』ダーウィン著作集2、文一総合出版、、452頁)。
無償の愛情、無償の共感というわけではありません。愛情と共感は「同じ集団に属し
ている個体」に向けらると、ダーウィンは考えました。そして個体および集団の生存に有利だから、愛情と共感という感情は保存され、「社会的本能」になったのでは、と論じられます。
無償の愛情、無償の共感ではないから、愛情や共感は偽善なのでしょうか?
私は偽善とは感じません。ダーウィンにとって、愛情と共感は、「生命のための闘い」のなかで獲得することができた、能動的な力能なのですから。

ニーチェの『道徳の系譜』(1887)がフロイトよりまえに、これを転倒させたのかもしれません。助け合いや同情を説く道徳は、他者を圧倒する生命力が衰退した弱者が、強者の力を恨んで打ち立てた、生命に反する価値にすぎない、と。
フロイトはダーウィンとニーチェの二人の著作に親しんでおり、ダーウィンを非常に尊敬していたのですが、考えかたの枠組みはニーチェに従っているようです。フロイトの『文化への不満』(1930)は典型です。

フロイトによれば、愛情や良心は、欲動を満足させることができなかったときに生じるというのです(『幻想の未来/文化への不満』光文社古典新訳文 庫、203―204頁、25頁)。ニーチェと同じく、愛情や良心は、あきらめから反動的に生じる感情として、いわば馬鹿にされています。

本当の目標を達成できなかったくせに、愛情や良心を価値あるものとして唱えるのは
偽善。そうしたフレームが、ニーチェからフロイトに受け継がれたと思います。

しかしダーウィンの観察と考察では、愛情や共感を抱くこと、助け合うことは、(人間を典型とする)動物が自然史のなかで、「生命のための闘い」のなかで獲得することができた、「最も高貴な部分」です(『人間の進化と性淘汰I』ダーウィン著作集1、147頁)。

たしかに思想の領域でも、近代化の感性と「助け合う」ことは相互に矛盾してきたのかもしれません。だからこそ、近代化の感性や価値を転覆させるべき時、「生命のための闘い」が切迫する今、ニーチェやフロイトの堤防をダーウィンが乗り越えてくるのではないでしょうか。

舌足らずの長文メールになってしまいましたが、考えていたことを補足してみた次第です。何かの機会にまたお会いできれば嬉しく思います。

榑沼範久

「人間にとって重要なのは、愛情と共感という感情である」そして「その愛情と共感は『同じ集団に属している個体』に向けらる」というダーウィンの言葉はそれこそ僕にとっても鳥肌が立つ。それなしでは個体は生きていくことができない。
たまたま手近にあった「権力への意志」には全く正反対のことが書いてある。「『人間は劣悪である』とキリスト教が教えるような普遍的命題は、退化した者の 類型を人間の正常な類型とみなすことが正しいとすれば、あるいは正しいかもしれない。」(ニーチェ、権力への意志・上、p325)つまり、キリスト教的な 愛は「人間は劣悪である」という解釈(普遍的命題)と共にあるというわけである。「人間は劣悪である」その劣悪な人間が愛によって救われるという、愛や共 感、あるいは助け合うという感性に対する否定的な感情、それは今の私たちの中にも確かにあるように思う。そうした感情を覚醒させたのは確かにニーチェだ。